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2007年1月 7日 (日曜日)

母校の講演 冨小①

たけの無口な講演を「行きたい!」と言ってくれる方が、けっこう多いです。

ありがたいことです。ありがとうございます。

今度、母校の阿南市の富岡小で6年生に講演します。

なら、原稿を記事して、たけはこんな内容を講演することをわかって下さい。

長い文やし、暇が出来たらよかったら読んでください。

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富岡小学校6年生のみなさん。

はじめまして。無口な絵売り「たけ」です。

今日はありがとうございます。

僕は25年前に富小を卒業して、阿南中学校、富岡西高校から京都産業大学に進み、以来ずっと京都で住んでます。

実家はここから見えるところですよ。

今日は、かわいい後輩のみんなの前で、講演をさせていただけること、大変楽しみにしていました。

今回は、僕が思う「宇宙一いい言葉 ありがとう」について、講演します。

「ありがとう」はすごいパワーがありますよ。

それは後で言いますが、先に僕のことをちょっと言わせていただきますね。

さて、なぜ、僕が無口かと言えば、しゃべることが出来ないから無口なんです。

僕は脳梗塞の後遺症で、言語全般、話す、聞くことができないこと、書く、読むことが少し難しいこと、右手の麻痺していることなど、いろいろな障害をいただきました。

今、へたな絵に自分の言葉をそえて、人さまに売って生活をしています。

自称「日本一無口の絵売り」です。

僕はしゃべることが出来ないから,代わりに,西田先生に原稿を読んでもらうこと、許してくださいね。

病気をする前の僕は、京都を中心に活動するバンド「たけかめ」で、歌とギターを担当していました。そして、歌を歌うことに、ちょっとだけ自信がありました。

京都の繁華街、四条のライブハウスなどにレギュラー出演して、ライブ活動と自分で作ったCDの売りあげも伸ばしていました。僕は、このまま一生、歌いつづけていくものだと思っていました。

それが5年前,2001年10月。突然、脳こうそくを発病。

ところが,ひとり暮らしだったので、倒れてから発見されるまでに、まる二日が経っていました。一時は生死の境を、さまよったらしいのです。

そして、目覚めた時には、重い障害が残っていました。

後遺症は、失語症、聴覚障害、発音が困難になる構音障害、右手麻痺……。

つまり、歌を歌うこと、音楽を聴くこと、ギターを弾く右手、僕の得意分野すべてを失なってしまった。

いままで音楽をやってきたものにとって、これほどの絶望があるでしょうか。

神様は,僕にとってめちゃ大事なものを,わざわざ選んでもっていってしまったみたい。

それは34年間生きてきて、はじめての絶望だった。

発病当時、僕はほんとうに苦しかった。絶望。

「なぜ自分がこんなことに?? 声の出しかたがわからない。言葉を忘れてしまった。右半身が動かない」。

しかも,小便はチューブ,大便はオムツの中,排泄は人任せ,食事は鼻からチューブ。

ベッドの上でぶざまな姿を見せるだけ。

34歳で,僕の人生は終わった。これ以上,生きたとしても,何ひとつ,いいことはないだろう。

「もう死んだほうがましだ」と、繰り返し絶望が襲った……。

でも、深い絶望があったけど、

深い絶望があったけど、

僕は以前から「宇宙学」という精神世界の類を勉強していて、


その中に、

こんな言葉がありました。ちょっと難しいけど、

それは

「天地に風雨あるが如く、

人生また順逆を免れず、

順にして驕らず、

逆にして尚その逆たることを感謝し、

己の生業に精励努力せよ。

必ず

天の導きあり、

神の助あり」

人生はいい時も悪い時がある。

いいときに感謝することはあたり前

うぬぼれなく、つらいときこそ感謝する。

すると神の助けがあるという意味です。

「ありがとう」を漢字に書いてください

みんな、わかりますか?

「有難う」 

ですね。

「難」「有る」から「有難う」ですね。

困難の時こそ「ありがとう」という意味ですね。

僕はこの障害に無理やり感謝しました。

言葉を忘れてしまったけど、「ありがとう」と思い続けました。

オムツ姿やけど「ありがとう」と思い続けました。

右手が動かないけど「ありがとう」と思い続けました。

助かったことを後悔したけど、「ありがとう」と思い続けました。

「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けました。

もちろん、最初は心が込もっていない感謝だったと思いますが…

とにかく「ありがとう」と毎日、毎日、思い続けました。

すると、

発病してから二か月ほど経ったある日、

「絵でも描こう」となんとなく思い、安いスケッチ・ブックと筆を買いました。

残った左手で筆をもちました…

!!

まったく不思議だった。

言葉はなかなか出てこないのに、筆ならスラスラと躍るように描ける。

絵を描くことは小学生の図工の授業以来の僕なのに,なんと左手で絵を描けるんです。

この発見に感動して、僕は毎日毎日、絵の勉強本を見ながら、無邪気に絵を描いていました。 

絵を描くことが楽しい日課になって、絵は少しずつ、上手になっていきました。

言いたいことがあって、それを詩にして、その詩にあう絵を描くようになった。

そう考えてみれば、絵を描くということは、曲を作るときと同じだったことに気づく。

歌とギターから言葉と筆にもち替え、ふたたび表現できることは、僕の生きる希望になった。

歌ができたらライブのように人に聴かせたい。作品ができたら人に見てほしい。

近い将来、路上で展示したいと思った。

そして、いつか絵で生活したい、と思うまでになっていました。

僕は、なにができる?

「喋ることはできない、耳も聞こえにくい、言葉もなかなか出ない、右手も使えない、心臓も弱い、仕事がない、金もない、住むところもない」

「……ない」「……できない」のオンパレードだった。

失くしたものを数えたらきりがない。

でも、絵を描きはじめ、希望と夢をもった僕は、逆に「できること」を考えはじめていた。

「左手で絵が描けるし、足で歩いてどこへでも行ける」

できることはかなり少ないけど、これで充分と思った。

僕は絵を描くことだけができる。ほかのことは、なんにもできない。

そして常にいいイメージを心がけた。

すると、不思議と楽に、自分の将来のイメージができた。

しかも色付きでいいイメージが出てきた。

このように、後遺症に打ち勝つのでなく障害を受け入れながらも「できること」を考える前向きの考えが芽生えました。

そして、発病して半年後

リハビリ病院に入院中なのに、京都の繁華街、四条で自作のポストカードを

路上販売しはじめました。

しゃべれないし、

耳もきこえない、

言葉もわからないくせに、

路上に座りました。

我ながらいい根性だったと思います…

アホでしょう(笑)

でも、これからの人生を開くチャンスが、きっとストリートにあるはずと思いました。

マスコミの取材や、個展の話や、本の出版の話はストリートにあるはず、と強くイメージしていました。

そして、今、発病して5年が経ちました。

この5年の間、新聞やテレビ、雑誌などマスコミの取材が相次ぎ、2003年6月にはフジテレビ『アンビリバボー』に出演し、同年の10月には『ほっこり生きよう』を出版し、全国での個展などを経て、プロの表現者になりました。

あの深い絶望の頃、

「天地に風雨あるが如く、人生また順逆を免れず、順にして驕らず、

逆にして尚その逆たることを感謝し、

己の生業に精励努力せよ。

必ず

天の導きあり、

神の助あり」

の言葉がなかったら、いまの僕はなかったと思う。

そして「ありがとう」のパワーを実感した5年間でした。

「有難う」という漢字を見たら、「難が有る」でしたね。

今の苦しさも困ることも、実はありがたいと感謝することだった。

200612_2

ピンチの時に「ありがとう」です。

ピンチはチャンスですね。

最大のピンチは最大のチャンスですね。

ピンチの時でも、思いと言葉で運を変えることができる。

続く

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コメント

カレンダーの言葉ですね。
「ありがとう」のパワーは、すごいですね。
ピンチは、チャンス。そう言われると、なんかピンチが楽しみになってしまいました。

投稿: sora | 2007年1月 7日 (日曜日) 20時02分

たけさんの言葉に影響され、今年はもっともっと「ぁりがとぉ」の言葉を使おぅと思ってます。
今年からはぉ参りに行ってもぉ願ぃはせずぁりがとぉと感謝するよぅになりました☆
とっても心が穏やかになった気がします(・∀・)

投稿: なつ☆ | 2007年1月 8日 (月曜日) 04時52分

☆SORAさん
☆なつ☆さん

長い記事を読んでくれてありがとう!感謝します。

②を期待してね!

投稿: ☆たけ☆ | 2007年1月 8日 (月曜日) 20時40分

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